「神は愛なり」とは言いますが、なぜ、世の中がこんなにひどいのでしょうか?と思いませんか?(後半)

私が聖書を知る前に、「神は愛なり」とは言いますが、なぜ、こんなに世の中がひどいのでしょうか?と思っていました。ただのきれいごとを言っているだけだし、聖書を知っても意味がないと思っていました。

前回の投稿で話しましたが、私の家庭には大きな問題があって、その為に、25歳の時に、精神的にも、肉体的にも限界を超えてしまい、もう生きていく気力がなくなってしまいました。その時に、アメリカ人と結婚してアメリカで生活している姉から、聖書の話を聞きました。姉は、プロテスタントキリスト教会のクリスチャンで、アメリカの教会から日本に派遣されている宣教師と会ってみないかとお誘いがあって、会ってみました。

そして、その宣教師から、聖書の話を聞き、イエス・キリストの話を聞きました。それから、私の心が変化し、絶望だった人生が、喜びと感謝と希望の人生に逆転しました。

その後に、母親も、弟も聖書を知ることになり、母親と弟と私の3人で、イエス・キリストの御名によるバプテスマを受けることができました。

家族3人で、もう一度、人生を再スタートをすることができるようになりました。

そして、2度と会うこともないと思っていた父にもう一度、会いにいくことができました。神様は、人の意思を超越して働くことはありませんので、私自身が悔い改めて、もう一度、父に会って和解したい、そして、イエス様のことを伝えたいと思って、祈りました。そして、10年ぶりに父に会いに行きました。父と再会した時は、とても緊張して、何をどう話したかは覚えていませんが、父とは和解することができました。

その後に、父も教会の礼拝に参加するようになり、後に、バプテスマを受けて、非常に弱い信仰(なんとか信じている程度の信仰)ですが、毎週、礼拝をささげています。

ヨハネの福音書5章に38年間病んでいた人が出てきます。

「こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。」(ヨハネの福音書5章1節~9節)

 

この病人は、イエス様と出会って癒されて歩けるようになった、つまり健康を回復したということになります。

この病人の問題は何でしょうか。

イエス様に、「なおりたいのか」と言われましたが、この病人はイエス様に

「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

と答えました。つまり、池に行くことで、病が癒されるのに、それができないのは、他人がやってくれないからということです。

つまり、病の原因は、他人のせいだと思っていることです。

その後に、イエス様は、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。とおっしゃいました。つまり、「あなたの罪(原罪)、神様から離れている罪から根本的に、悔い改めて、起きて歩いていきなさい。生きていきなさい。とおっしゃったわけです。

これらの御ことばが、私自身に語られたことのように思えて、身体に電気が走ったような衝撃がありました。

私自身、こんなに貧困になって苦労しているのは、父のせいだと、父を恨んでいましたが、私自身に根本的な罪がある、神様から離れている罪を認めて、悔い改めて再スタートするしかないと思いました。

そして、イザヤ書53章4~6節に以下の御ことばがあります。

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」

(イザヤ書53章4~6節)

 

預言者イザヤが、イエス・キリストの功労(私たちの為にしてくださったこと、つまり恵み)を預言(記録)しています。

この世に生まれて、楽しいこともありますが、苦しいこと、悲しいこと、赦せないことがたくさんあります。しかし、イエス・キリストは、自ら懲らしめを受けて、私たちの身代りとして、咎(とが)を受け、傷つけられ、私たちの不義の為に砕かれたのです。そして、私たちに平安を与えてくださり、その打たれた傷によって、私たちが癒されたのです。癒しは、心の傷、また、肉体の病の傷も含んでいます。まず、霊の罪(原罪)が赦され、イエス様の血によって、聖くなります。そして、魂に平安がきて心が癒されます。そして、その後に、結果として、肉体の病が癒されます。御ことばが、肉体に直接働くことはありません。イエス様の功労、御ことばは、まず、霊に働き、そして、魂(心)に平安を与え、最後に肉体の病の癒しを与えます。この順番を理解してください。

 

このように、聖書を組み立てて、順序立てて、読んでいけば、神の癒し(神癒)は、必ず起きます。

「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。」

(マルコによる福音書 16章17節~18節)

現代の新約教会の時代、聖霊が働く時代には、御ことばに伴うしるし(証拠)があります。しるし(証拠)は、神様が生きておられる証拠でもあります。

このウェブサイトをご覧になってこの記事をご覧になっている、あなたにも、御ことばに伴うしるし(証拠)が現れますようにお祈りします。

聖書の御ことばを忠実に守る、律法学者のような、宗教生活は終わらせましょう。ぜひとも、みなさまにも、神様の生きておられる素晴らしいしるし(証拠)が現れますように、心からお祈り申し上げます。

 

2023年1月16日

クリスチャン フレンド ミニストリー スタッフ一同
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